きつねにっき

推しに引かれて善光寺

熊林弘高演出:シェイクスピア「お気に召すまま」を見てきた話

まあ仕事辞めましたよね!

今はとっても元気です。ニチアサも元気に視聴しています。

今は別の場所できちんと自分の本当にやりたいことと向き合っています。

 

 

本題です。

舞台公演「お気に召すまま」を見てきました。

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シェイクスピアによるなのでお話のネタバレもへったくれもありません。

が。

古典作品の面白いところは演出が違えば毛色が大幅に変わる点だと思っています。

私にとっては以前見たシェイクスピア作品といえば佐々木蔵之介がやっていた「リチャード三世」。シルヴィウ・プルカレーテの演出でかなりシュールでした。大好き。

また、翻訳やどこをどうカットするかで同じ題材でも大きな違いが出たりする。これは異国語で劇を上演するときの面白さだと個人的には思います。

ということで以下、演出のネタバレがあります。

残る公演は少ないですが、仁義は通したいのでブランク開けます。書くの久しぶりなのとビジュアル面でのパンチが強かったのでいつも以上に混沌とした文章になっていますが、リハビリを見ていると思ってご寛恕ください。また、ご存知の通りHiGH&LOWの林蘭丸を拗らせているので今回は中村蒼を目当てに出かけて行ったことをお含みおきください。ええ、まだ拗らせています。
 感想は皮肉屋にして気鬱の虫、性に奔放な旧公爵の廷臣ジェイクスが中心になります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 中村蒼を見にシェイクスピア劇に行った話。もしくは、推しが観念上の鹿とセックスしてた話。あるいは、道化タッチストーンと皮肉屋ジェイクスの演出に関して。
 
 
事前に「エロい」「いい匂いがする」「エロすぎて集中できない」「新境地」等怖い情報を見て縮み上がっていました。しかし毎回ブルドーザーみたいに新境地を開拓しているので多分同年代の中でも図抜けてレンジが広い役者さんですね。特に気の毒な役を演らせたらトップクラスだと思います。

朝ドラでは今度こそ幸せになってほしい。

とにかくなんだよ「いい匂い」って超怖い。と思っていたらスタンドフラワーの中にジョンマスターオーガニックの社長さんからのお花が(満島ひかりさん宛てのもありました。シックでおしゃれなお花だった)。いい匂いはジョンマスターオーガニックだったんですかね。森の住人だからかしら。

「お気に召すまま」を観るに当たり 、数本の論文を読んでから挑みました。
「お気に召すまま」には種本があり、登場人物はその種本を踏襲しています。ただ、ジェイクスとタッチストーンの二人だけがシェイクスピアによって生み出された人物です。高橋康也は「道化の文学」においてタッチストーンの造形は時の道化役者を反映したものだと述べ、さらにヘンリー四世のフォルスタッフから連なるその性質を分析し、シェイクスピア劇全体の道化史を述べています(高橋康也「道化の文学」中央公論社1977年、127頁)。

 しかし今回の熊林演出における道化タッチストーン(演:温水洋一)の立ち位置は微妙なところです。
 道化タッチストーンはシェイクスピア作品の中でも宮廷道化として特筆される存在です。台詞運びはもちろん、最終的に結婚という道化として前代未聞のイベントをぶちかましているのがその理由です。
 ですが、今回の演出ではタッチストーンは数いる登場人物の中でほんの少しだけ位相が違うだけの人物になっている、物語のシステムの中に安住する人物のように思いました。
 訳の関係上、タッチストーンの機知は下ネタに極振り、エロ太郎状態。でもほかの登場人物も負けず劣らずエロ太郎及び下ネタ姫状態。風紀紊乱王国です。その中にあって、今回のタッチストーンの場を道化的機能は演出の中に馴染みすぎちゃったというのが私の感想です。
 また、特に「おやまあ」と思ったのは彼の衣装。「まだらの衣装」とセリフの中で言われているように、彼はまだらの服を来ています。黄色いシャツに赤いタータンチェックのスカート。ド緑のハイソックス。派手。
 宮廷のシーンでは、ロザリンド(演:満島ひかり)、シーリア(演:中嶋朋子)のビビッドカラーワントーンのドレス、男性陣のきちんとした服に対してはまだ差別化が図られていました。
 対してアーデンの森。脱ぎ散らかされた服で表現された「森」の住人は色とりどりの服というか布というかを引っ掛けたり、とにかくカラフル。もしくは半裸。ロザリンドとシーリアは羊飼いに扮装しているのでそこまでカラフルではないものの、ギャニミードとロザリンドの境界が曖昧になったになったロザリンドはシャツに生脚(!)。派手。
 そう、タッチストーンの衣装は森の住人に紛れてしまいます。靴下をギャニミードにわけてあげてほしい。寒そう(森の住人の逸脱性が衣装で示されていた、とも言えましょう)。
 ラスト、オーランド(演:坂口健太郎)とロザリンド、オリバー(演:満島真之介)とシーリア、シルヴィウス(演:荻原利久) とフィービ(演:広岡由里子)、そしてタッチストーンとオードリー(演:小林勝也)。この四組が結婚式を挙げる時、彼らの服装は統率が取れていました。パッと見て違和感がありません。
 
 それに対し、中村蒼演じるジェイクスの服は真っ黒です。オールバックで(あと腕のとこ透けててエロい)。
 もうこれだけで「あっこいつヤバいやつだ」とわかります。初っ端マジで逸脱行為をぶちかましてくるので衝撃がすごい。冒頭に書きましたが鹿とのまぐわいです。この時点でこの劇のジェイクスのキャラがわかります。
 ※原作ではもちろんただジェイクスは矢が刺さった鹿を見て陰鬱な気持ちになってぶつぶつなんか言っているだけです。よもやまぐわいなど。
 その後はもうやばい。エロい。語彙は死んだ。生きててよかった。ありがとう熊林弘高。みたいな場面の連続です。ありがとう熊林弘高。
 さて、この演出におけるジェイクスは性にものすごく奔放です。ただしその奔放さはカラフルな森の住人とは違って少し質の違う奔放さのように感じました。
 たぶん、他の登場人物と比べてねっとり動くからでしょうか。皆さんがわりと軽やかに動くのに対し、ジェイクスはわりとゆっくり動いていたように思います(唯一素速かったのは、ギャニミードにあるはずのものがなくて「あれっ?」ってなってた時。かわいかった)。ゆっくり動くのは大変なのでかなり鍛えないとしんどいはず。すごいなぁと思わず唸りました。
 ベンチプレスとプロテインで鍛えたという、程よく仕上がった坂口健太郎との絡みはエロティックなんですがオーランドの人柄のおかげで辛うじて品がありました。その前のアミアンズ(演:テイ龍進)との絡みはスギちゃんも裸足で逃げ出すワイルドさでした。服着てたし袖もあったけどさぁ。
 今回の演出では、ジェイクスは最後、結婚式に背を向けて客席に座ります。そしてロザリンドの幕の言葉に何も返すことなく、客席の後ろに消えて行きます。タッチストーンが物語の枠内で幸せを掴む道化なら、この演出におけるジェイクスは物語の枠外に出て、祝福の輪の中からはじき出された哀れな道化になります(祝福を伝えるジェイクス・ド・ボイスを中村蒼が二役で演じるのも象徴的です)。
 旧公爵とジェイクスの視線の絡み合いは軽やかな恋の鞘当てではなく、ドロドロしている情念を思わせます。恋に恋する人間の多いこの劇の中では異色の感情かと思います。
 そう、愛とエロスはイコールではないとジェイクス自身がさまざまな人とまぐわうことで示しているのに、ジェイクスはそれを求めるキャラクターだということが(動きと目線だけで)徐々に明かされ、最後のシーンでジェイクスはそれを諦めたことが示されます。黒い衣装。森の住人と同質ではなく、宮廷の人間でもない、ジェイクスは性質としてひとりぼっちであることがここではっきりします。
 熊林演出における「お気に召すまま」。この作品の道化はタッチストーンであるとみせかけて同時にジェイクスであり、役割の軽重で言えばジェイクスに大きく振れているように感じました。
 
 中村蒼はどうしてこう、「断絶」「寂しさ」を背負った際の火力がすごいのか。天ぷら油の火柱ばりにどうしたらいいかわからんかった。
 林蘭丸にしろ、「悪人」「詐欺の子」にしろ、「わかりあえない」「はじき出された」といったアウトサイダーの役がバチバチにハマる。
 身体表現として適切というか、なんというか。これが役者さんの力だと言われればそれまでなのですが、それでも中村蒼はやべぇなと感じた劇でした。オフではふかふかのお布団で寝ててくれマジで。
 また業の深い役をしてくださいお願いします。

なっちまったもんは仕方がない

 

まさかTRUMP見た三日後に適応障害の診断を受けるとは。って話です。

 

自分の勤務している事務所は四つの部署が合わさった事業所で、四月に新卒として入った。

「隣の仕事もしてね」

と言われながら。

まあ身にはなるだろう、と思いつつやっていたらいつしか自分の部署の仕事が隣の部署の仕事に圧迫されてできなくなった。

隣の部署の仕事による出張も増えた。

自分の部署の仕事を覚える速度は牛歩の速度だった。

けれども仕事は待ってくれない。部署の人が減って、任される作業も増えた。

ビルドが終わった。大好きな仮面ライダービルドは新世界を作ってきっと立川で暮らす聖なお兄さん家の隣で同じくルームシェアをしている(※個人の妄想を含みます)。

朝加圭一郎は相変わらずかっこいい。

わからないなりに考えてやった作業が結局間違っていて、忘れた頃に爆発した。

人に教えてもらったやり方が間違っていた。

新卒なら多分きっとよくあることなのだろうし、社の方針も「当たって砕けて強くなれ」だ。

たぶん大丈夫。耳鳴りがするくらい。

みんなしんどいんだから、自分の仕事はきっちりやろう。怒られても仕方がない、過去にやった報いである。頭が痛いくらい、我慢しよう。

ジオウくん、ちょっといまいちだな。あれぇ?ルパパトこんなに楽しくなかったっけ?

自分で首を捻る事態が増えていった。赤いモフモフを眺めていても、何の感慨もわかなくなったときはさすがに「やばい」とは思った。

大人になったのかな、と思った。

そんな中『TRUMP』を見た。

TRUTH、REVERSE両方とも。

 

恐らく、ここである種の異常状態にあった私の心は、正常に戻ったのだ。

 

以前、『グランギニョル』のYouTube配信を見ていた私は「そうかこの子がソフィー…待って…」「ウル…待ってくれ…」と情緒を取り戻した(ダリちゃんのシーンは情緒を失った)。

特に私の情緒を取り戻すのに一役買ってくれたのが武田航平演じるアレンである。

陣内将演じるクラウスとの場面は砂糖菓子のように甘くて、ひそやかに消えていった。それだけに、クラウスがTrue of Vampとして覚醒する場面はあまりにも、あまりにも狂気を孕んでいて画面の中なのにぞっとした。

そして平田裕一郎演じる臥萬里。たぶん、ビジュアルが蘭丸に似ていたのか好みでした。『グランギニョル』の時の春林・歌麿師弟もすごく好きだったので、なんか、こう、クるもんがありました。

REVERSE。高貴さゆえの無邪気ささえ感じる高杉ウルと、一匹狼感が増した早乙女ソフィー。色気がすごい陣内アレン。どうした。タヌキ感のある武田クラウス。

大塚萬里も個性的なヘアスタイルに負けない動きで好きです。九州弁ピエトロも可愛かった。

話は爆裂にしんどかった。

なんでこんなことになっているのか、誰にもなんの責任もないのに。きっとクラウスは嬉しかったのだ。不死を羨まれることには飽きていて、ただ「クラウス」のことを慮ってくれるアレンの言葉が。自分には腐るほどある『今』を一生懸命に駆け抜けようとするアレンの姿が。

「寂しかったんだね」という言葉が、本当に彼を寂しくさせてしまったのだ。

TRUMPを見てから、ずっとそんなことを考えていた。

 

仕事がなんか急に、爆裂にしんどくなった。頭痛、めまい、耳鳴りで作業が進まない。ジオウもルパパトも面白いはずなのに見ることが出来ない。帰途涙が止まらない。日本語歌詞の音楽が聴けなかったので『輪廻夜想』ばかり聞いていた。コートも脱がずに引っ繰り返る。矢継ぎ早に質問される。あれやった?これやった?この確認はいつの?

最初から中途雇えよ。なんてことは言えない。怒ることも出来ない。

新卒なので。

 

休日にREVERSEを見た三日後、私は起きるべき時間に起き上がることが出来なかった。泣きながら電話して、死んだ目で病院に行き、泣きながら診断書と薬をもらった。

 

 

恐ろしいことに私は今も休職せずに働いている。診断書を上司に叩きつけ、本来あるべき部署に戻せと言った。戻ったが案件が炎上している以上どうにもならない。私の仕事はバランスを変えただけだった。四つの部署は相変わらず人が少ない。私は薬を飲み、だましだまし事業所を徘徊している。ありがたいことに、事業所の皆さんは暖かく見守ってくださっている。それだけに、早いこと元気になりたいものである。

 

幸か不幸かTRUMPショック療法のおかげで情緒は戻った。ジオウもルパパトも面白い。朝加圭一郎はやっぱりかっこいい。ただまだバランスを崩しているのか、ネパールのカレー屋さんのツイートとかでボロボロ泣きそうになってしまった。 

しかし、取り返しのつかない重症になる前に適切な処置を受けられたので幸運だったと思う。けれども私は今しばらく彷徨わなければならない。そう___健康に手が届くまで。

 

 

元凶。

 

無限に好き。

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 こころを助けてくれてありがとう。

一年たったのに

 

仮面ライダービルドについては正直まだ消化中です。

だって、あんな父殺しを派手にやられて、ファウスト的な部分も大幅にあって…。

(個人的には葛城巧が最終的にメフィスト的な立場になったのが面白いなと思いました)

さらに、所謂「セカイ系」を地で行っておまけに戦兎と万丈のエモいことエモいこと。

 

名作やんけ。

 

ちゃんと近々まとめたいです。

昭和ライダーからの系譜は宇野常寛さんの『リトル・ピープルの時代』にうまいことまとめられてて面白かったです。個人的にはちゃんとした組織であるショッカーと組織的に(一号が海外のショッカーを倒しに行く間に二号が出てきたりとか)戦っていたのに対してビルドではめちゃくちゃ狭い人間関係が世界を揺るがしているあたり、カトリックからプロテスタントへの移行つまり組織から個人へ、みたいな動きは普遍的なものなのかなーと思ったりしました。だからこそのファウストなのでしょう。

あと、実はファイナルステージも見に行ったのですが、エボルトの最期の言葉がすごく好きです。

 

 

さて、HiGW & LOW THE MOVIE 2 END OF SKYが公開されて一年が過ぎました。

なのにまだ筆者は赤い毛玉に殴られ続けています。

ビルドに武田航平さんが出演されていたことも大きいです。はちゃめちゃにかっこよかったです。あんな農家無理…。

 

就職して、正直最近つらいなとしか思わなくなってきましたが、とりあえずビルドとDOUBTに救われて生きてます。いやDOUBTに救われるのはまずいけど…。

 

とりあえずこないだグランギニョルを見たので、TRUMPを見ます。

 

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4. 戦兎と石動 / 葛城と石動

 

 戦兎と石動。この二人は被創造物と創造者ともいえる状態にあります。個人的にはこの関係に非常な趣を感じてめちゃくちゃ好きなんですが、戦兎の前進が葛城であることを考えると、葛城ファウストと石動メフィストという図式がしっくりきます。

 葛城の研究対象はパンドラボックスであり、現状パンドラボックスと一番縁が深いのは石動です。また、前回述べたように科学=悪ではないかという疑問が呈されている現状に加え、場合によってはパンドラボックス≒石動であると考えるとこの構図は強化されます。

 しかし、科学を二面性のあるものとして置き、葛城=ファウストと置いた場合、科学の悪の側面は石動が象徴することとなりますが、正義の側面を象徴するのは戦兎ではないでしょうか。

 つまり、葛城≒戦兎≒ファウスト VS 石動メフィストという構図が完成します。しかし、戦兎はその人格形成において石動に大きな影響を受けています。

 ここで筆者はゲーテファウストホムンクルスを想起します。ホムンクルスファウストの弟子ワーグナーが完成させたとされていますが、実際はメフィストの魔法でちょちょいと生まれています。

 この辺がもうちょっとなんか、本編でなんかないかなぁとか思いますが…。

 

 さて、ゲーテの『ファウスト』において、メフィストは以下のように述べています。

 

 

  人間はあんた(神)が天の光を与えなかったならもっとましな暮らしをしていたでしょうにね。

  人間はその光を“理性”などと呼んで、ただどんな獣よりも獣らしくあるためだけに使っているんですよ。

 

 

 この“理性”を“科学”という言葉に置き換えると、以前の石動スタークの台詞に重なってきます。もちろん、この理性の光は戦兎の一生懸命な活躍で正しい方向に使われていきます(少なくとも戦兎はその方向を向いています)。

 前回述べたMortzkiの論説、ヘーゲル哲学における肯定と否定のそれぞれの原理をファウストメフィストが象徴しているという論を採用すれば、肯定の戦兎、否定の石動が共に働き合うことで(一時期不本意にも流行した)アウフヘーベン、科学の「よりよい」発展に繋がっていくと考えられます。

 

 石動惣一のトリックスターじみた動きが来週どのような展開を迎えるのか想像がつかないので、また改めて追記します。

 

4/13 追記

 

 なんかとんでもないことになりましたね!

 そもそも石動惣一=ファウスト、エボルト(?)=メフィストなんですかね。

 増殖するメフィストという点では非常に興味深いのではないかと思います。

3. ファウストと『仮面ライダービルド』

3.  ファウストと『仮面ライダービルド

 

 本稿では、上記にまとめたファウストをモチーフにした作品群を便宜上『ファウスト文学』と呼称することにします。

 『仮面ライダービルド』がファウスト文学の影響を受けていることは、まず悪の組織の名前がファウストであること、その悪の組織が科学者を中心とし、反倫理的な研究を行っていることなどが挙げられます。そもそも科学の功罪について言及するこの物語は、倫理と科学という局面においてときおり引用されるファウストを避けて通ることは不可能でしょう。(そしておそらく、前提となっている作品はゲーテファウスト』でしょう)

 さて、ファウスト文学をファウスト文学たらしめているものは何か。それはすなわち、主人公が自分の欲望を反倫理的な他者と手を結ぶことによって成就するという枠組みといっていいでしょう。

 この反倫理的な他者とは何者か。ファウスト文学においては「悪魔」として登場しています。ファウスト文学が生まれたドイツは当時キリスト教世界観の下にあり、神に属する人間に反する存在は全て悪魔ということで説明がついていました。前述した民衆本は、悪魔に手を出すとこうして人間は破滅するぞという教訓譚としての意味も持っていたのです。しかし、宗教改革から近代科学の発達、個人主義の勃興を経た18世紀においては、悪魔は文学におけるファンタジックな登場人物としての機能を強くします。具体的な恐怖や脅威の対象ではなくなったのです。ゲーテファウスト』におけるメフィストは時には主人公以上に人間臭い、シニカルな魅力を備えた登場人物となっています。

 ゲーテファウスト』におけるメフィストは、ファウストを見守る神の手のひらで踊る道化です。また、ヘーゲル哲学に基づいて、肯定(ファウスト)に対する否定原理であると指摘する研究者もいます[1]

 20世紀において、トーマス・マンメフィストファウストの病気によって現れる幻覚の中の人物として設定しました。つまり、悪魔は人間の内部にあるとしたのです。トーマス・マン第二次世界大戦中、ナチスドイツによって故郷を追われた人物ですので、この経験が彼の作品にそのまま落とし込まれていると言ってもいいでしょう[2]

 

 『仮面ライダービルド』において「メフィスト」という固有名は出てきません。もちろん、ややこしいからに他ならないことがその理由でしょう。

しかし、科学者が自ら「ファウスト」と名乗っているのは興味深いところであると考えます。ここにおいては(葛城や幻徳のすすめる)科学の発展そのものが悪(の要素を持つもの)として語られる場面が多くあります。万丈は16話の時点で、葛城巧(戦兎)=科学=悪だということを口にするシーンなんかがそうですね。

それに対して戦兎は、科学は利用するものの心持で善いものにもなるし悪いものにもなると言っています。科学の創る明日はどっちだ、というところです。科学=理性と受け取れば、個人的にはこうした部分にゲーテファウストっぽさを感じます。あくまでぽさですが。

 戦兎はファウストなのかと考えると、そもそも戦兎は「桐生戦兎」として人格形成されたところからは自ら進んで反倫理的な他者に身を委ねたわけではありません[3]。とはいえ、反倫理的な存在としての科学だとすると、戦兎はファウスト的立ち位置に立っていると言えましょう。

興味深いのは、明らかに反倫理的な結果をもたらしたハザードトリガーを戦兎に与えたのは石動であり、その向こうには葛城巧がいます。現時点で確実にファウストと言えるのは葛城巧だと考えられますが、彼は同時にメフィストとしての働きも行っています。

そしておそらくというか確実に、メフィストはわくわくクソ外道おじさんブラッドスタークこと石動惣一でしょう。

 続いて、彼らの関係性を洗ってみたいと思います。正直ややこしい…。

 

[1] Winfried Marotzki: Der Bildungsprozeß des Menschen in Hegels „Phänomenologie des Geistes“ und Goethes „Faust“. In: Goethe-Jahrbuch104. 1987. S. 151

[2] この物語は音楽家レーヴァーキューンの人生を語り手ツァイトブロームが追憶するという体裁をとっており、ツァイトブロームがこの追想録を書き始めた1943年からの出来事が文中に事細かく登場している。

[3] E. T. A. ホフマンの『影をなくした男』のように近代人の主体性の喪失と関連付けて考えるにはしんどい気がする。

 

ファウスト文学史の観点から見る仮面ライダービルド 1

 

1. はじめに

私はこの悪の組織「ファウスト」の名前の由来となった文学作品「ファウスト」に関してはちょっといろいろ思うところを持っているのでこの仮面ライダービルドを見始めたのですが、意外や意外、この物語は文学作品ファウストの流れを非常に色濃く受け継いでいます。そのため、本腰をうけて考察しようと思い立ちました。

 本文中において人物名は全て敬称略で示します。

 

2. 『ファウスト文学』とは何か

 日本において最も人口に膾炙しているファウストは、J. W. ゲーテによる一連の『ファウスト』諸作品といっていいでしょう。大学教授ファウストはすべての学問に倦み疲れ、悪魔メフィストと契約をする。ファウストが「時よ止まれ、お前は実に美しいから」と述べたら、すなわちすべてに倦んだファウストが満足を覚えたら、ファウストの魂をメフィストにやるという契約である。メフィストファウストを市井の女性との恋愛や魔女の宴へと誘う。古代ギリシャにおいて美の概念に触れるなどの冒険をした後、ファウスト干拓事業に着手する。その中で未来へと進む人類の希望に触れ、契約の言葉を口にする。メフィストファウストの魂を地獄に連れていこうとするが、神やかつてファウストを愛したグレートヒェンもまた天上からファウストに手を差し伸べ、ファウストの魂は天上に迎えられる。という筋書きです。

 しかし、ファウストを描いたのはゲーテが初めての人物ではありませんし、そもそもファウストは架空の人物ではなく、十六世紀ドイツに実在し、当時の人々に「悪魔と契約したけしからん学者」として糾弾されたという人物です。

 十六世紀ドイツは、ルターによって火ぶたを切って落とされた宗教改革に伴う混乱の真っただ中にありました。法王を頂点とした宗教的階級社会、つまりカトリックの信仰に基づいた社会ではなく、人間は神の前では皆一人の人間であるとしたプロテスタントの信仰が生まれました(しかし、貴族や平民と言った階級はそのままでした。このあたりの変革はもう少し後の話になります。ここではあくまで信仰の話です)。同時に、集団としての信仰から個人としての信仰に変わるということは、当時恐れられていた悪魔に対して一人一人が立ち向かわねばならないということで、人々の心には不安と恐怖が渦巻き、魔女狩りや異端審問の嵐が吹き荒れました。さらに、科学技術が勃興するものの信仰の壁はいまだ厚く、科学技術は神に背くとして白眼視された時代でもありました。

 その中にあってファウストは、悪魔と契約した男として有名になりました。悪魔の力で死んだ人を蘇らせたり、馬商人を騙したりしていたとされています。現代のように情報が発達していない時代のことですから、ファウスト以外の有名な人物のエピソードが彼の行いとして誤って伝えられ、ファウストと一体化したりもして、尾ひれはひれが付いてファウストの物語は雪だるまのように膨らんでいきました。

こうした伝説は書籍としてまとめられ、民衆本(ありていに言えばジャンプとかモーニングみたいなやつ)の素材として長く愛されることになります。ゲーテはこの民衆本を基にした人形劇を見て、ファウストを書いています。

 ゲーテだけでなく、イギリスの作家マーロウもファウストを元ネタにした物語を書いています。また、スペインにも同様にファウストを元ネタにした物語があるそうです。レッシング、レーナウ、ハイネ。比較的最近の人であればトーマス・マンなど、ファウストはドイツを中心としたヨーロッパで息長く語られてきた物語なのです。

 日本においては、手塚治虫が再三再四ファウストを素材とした作品を発表しています。未完の作品「ネオ・ファウスト」はゲーテの作品を下敷きに、舞台を昭和の日本に変えて描かれていました。

 そして、ファウスト仮面ライダービルドの世界の、倫理を度外視した科学者たちの集団として描かれることとなりました。(続く)

ビルドのこと 先に書いておきたいこと

 

 

 「仮面ライダービルド」について書こうと思った矢先、大杉漣さんの訃報に愕然としていたらビルドの方でもいろいろなことがありました。

 今回は主にビルドが戦争を扱っていることに関し、その描写の軽重について韓国の視聴者から疑問の声が発せられました。ほぼ独り言のブログですが、考えたことを書いておこうと思います。最終回を見た後に見返すために。

 自分の視点はかなり文学モチーフを追う方に傾き、少しばかり狭かったなぁと猛省しています。

 分断国家に生きている人たちからすれば、確かにあの描写に疑問符をつけざるを得ないと思います。そして、そこに住む当事者として意見を表明してくれた方々に敬意を表します。

 その一方で、スポンサーや時間帯など様々な制約下におかれた制作側が頑張った結果だったのだろうとも感じますし、真面目な作りであるとも思います。ただ、制作側は戦争を扱うことをもっと慎重に考え、発言するべきだったという意見は甘んじて受け止めるべきでしょう。

 ただ、リアルに戦争を描くことが本当に戦争を描いたことになるのか、それは「子ども向けと銘打たれた枠内で大人のリアリティに接近した」という作り手と、それを賛美する視聴者による自己満足になりはしないかという疑問もあります。この疑問は、「戦争の本質とは果たして何なのか」という疑問につながると考えます。

 毎週見ていて、「人が人を傷つける・害すること」に関して仮面ライダービルドは(24話視聴後現在においては)真面目に取り組んでいると感じます。そうした点から、この作品では「国家間の対立」という大きな視点よりも、それに伴う「人間同士が殺し合う」という小さな視点から戦争を描こうとしているのかな、と思います。スカイウォールは大型飛行機などの物体は通り抜けられないのでちっちゃい仮面ライダーや密航船、スターウォーズに出てきたAT-ATみたいなやつしか行き来できないという設定は、そうした小さな視点を描くためだとしたら頷けます。また、北都の面々の民間人への危害を加えないとした発言も、彼らが生粋の軍人ではなく農家の人であり、不本意に戦わざるを得ない「人間」なのだという描写だと考えればその殺し合いの理不尽さがよりわかりやすくなるのではないでしょうか。理不尽な殺し合いというのは、戦争の本質のひとつであるといえます。望まないのに人を殺めたこと、誰かを助けたいのに誰かが傷ついて行くこと。こうした理不尽を子どもたちに「わかりやすく」見せるというのは、子供向け番組で戦争を扱うアプローチのひとつだと考えます。これはフィクションだからこそ描ける理不尽さではないでしょうか。

 しかしこうした理不尽な殺し合いを、今現在苦しんでいる人のいる国家間の争いごととわざわざ銘打って描写するべきことだったのか、理不尽な殺し合いを描く手段はほかにもあるだろうと言われると答えに窮します。

 本作はまだ折り返しの地点にあります。この先の展開や、ライダーシステムがなぜ造られたのかという部分を見ずに「私にとっての」「仮面ライダービルドの戦争描写に対する評価」は留保せざるを得ませんが、現時点では上記のように考えます。

 私はこの作品を「主人公桐生戦兎の自己形成物語」だと解釈しています。過去の自分(=葛城巧)の発明品が軍用兵器、人を傷つける発明品であったということは戦兎の自己形成に関し大きな影響を与えることであり、避けて通ることは出来ない問題だと思います。しかし、戦争をモチーフにしていると「前面に」押し出す必要は、必ずしもなかったのではないかとも同時に思います(ここにおいてトーマス・マンファウスト博士』との共通点・相違点も探りたいなとふと思いました)。

 子ども向けの作品は、大海に向かって投げる小瓶にいれられた手紙のようなものだと思います。その手紙は未来に開かれ、解読にはきっとたくさんの辞書と知識が必要です。子どもたちがその手紙を開くときにその辞書と知識を広く広く渡せるような存在であることが、大人に求められていることのひとつなのだと思います。

 

 この点については引き続き考えていきたいと思いますし、大人の視聴者として考えるべきことだと思います。また思うところがあれば、追記という形で更新したいと思います。