きつねにっき

推しに引かれて善光寺

林蘭丸というひとのこと 2 ダウトのこと

 今回は、キャラクター解釈において本稿で準拠するキャラクター論について述べた上で、DOUBTという組織全体に漂う「異質性」について考察します。

 

1.1 キャラクター論の観点から

 ここではキャラクター論という観点から集団としてのDOUBTを分析します。そもそもキャラクターとは何か。一般にキャラクターとは文学作品や漫画における登場人物の事を指します。二十世紀イギリスの小説家E. M. フォースターは、小説における登場人物を「平面的人物」と「立体的人物」に分け、前者を類型的な人物像とし、後者を複雑な人物像としました[1]。しかしフォースターの定義は小説を基にしているため、図像を伴った登場人物の定義には至りませんでした。後に、マンガ分析の文脈において、図像を伴った登場人物を「キャラ」と「キャラクター」に分けたのは伊藤剛です。伊藤は、固有名で名指される、あるいはそれを期待させ、簡単な線画で描かれた絵としてのキャラクターそのものを「キャラ」とし、その存在感を基盤として「人格」をもった「身体」としてその人生を想像させる存在を「キャラクター」としました[2]。小田切はこの論をさらに進め、「キャラクター」とはビジュアルとしての「図像」、劇中で成長などの変化が可能な「内面」、そのキャラクターの属性や類型としての「意味」の複合体であり、そのうちの一要素でも保持されていればキャラクターの同一性は担保されると述べています[3]。つまり、キャラクターとはビジュアル面としての「図像」、物語の中において表出する「内面」「意味」の三要素からなる存在であるといえましょう。

 これらの定義を踏まえて、DOUBTの中でキャラクターとして成立しているのは蘭丸、高野、平井のみです[4]。あとの有象無象のDOUBTたちは全て、フォースター述べるところの「平面的人物」、つまりは悪のモブとしての類型的人物であるといえます。

 構成員のみならず、このチームにおける類型的人物の割合は他のチームと比較すると突出して高いです。ここにおいてDOUBTに最も求められるのは三要素の内「悪役」という「意味」のみであることがわかります。これは当初DOUBTの頭目とされていた高野と平井のビジュアルが、他のDOUBT構成員とはっきりした差別化がない没個性的なビジュアルであったことからも推察できます。

 また、組織という観点からみたDOUBTは縄張りもはっきりしない、流動的な集団です。山王のように地縁に縛られているわけでもなく、揃いの法被も制服もない。蘭丸・高野・平井やごく少数の固定メンバーを除けば、多くが流れ者であろうと推察できます。また、ザムにおける1000人のエキストラの大半は、おそらくDOUBTに割り振られていると考えられます。加えて、山王やWhite Rascalsのようにトップの意思が末端まで行き届いている組織ではないということもSWORDとは対照的です。ここからもDOUBTが基本的には悪のモブとして扱われていることが指摘できます。

 

1.1 DOUBTの役割 

 DOUBTの特徴を簡潔にまとめると「極悪スカウト集団[5]」として表現することができます。商店街の青年団である山王連合会、黒服集団White Rascalsや高校生自警団テキ屋乱暴にまとめました)と比べると、誠に残念ながら率直に申し上げて犯罪集団です。

 DOUBTの行った悪事は以下のような行為です。

 

  • 人身売買 ドラマ1-ザム
  • 薬物売買 ドラマ1
  • 詐欺   ドラマ2(明確な言及は平井のみ)

・ 傷害   全部

・ その他破壊行為  全部

 

 これらの犯罪行為は山王連合会をはじめとする他のチームにおいて、というか基本的に許されない行為です。人身売買は明らかな人権侵害であり、到底許されるものではありません。この点に関してはWhite Rascalsがそのアイデンティティでもって明確に対立軸を打ち出しています。また、薬物売買は経済的な困窮が激しいRUDE BOYSでさえ禁忌としています。もちろん、現実世界においても犯罪行為である薬物売買を主人公サイドが行うことは許されません。つまり、このシリーズ序盤において薬物売買を行うチームとしての描写は、「極悪スカウト集団」という言葉以上にDOUBTを明確な悪役とすることに貢献しています。薬物ダメ絶対。

 しかし、傷害に関しては喧嘩をする以上HiGH&LOWに登場する人物全員が避けて通ることができない問題です。だが、DOUBTのそれは他の登場人物とは大きく違います。

 ザムを例に挙げると、暴走し張城と手を組んだ琥珀さんを正気に戻すにあたり、九十九、コブラ、ヤマトが壊れた電化製品を叩くがごとく琥珀さんを殴り続けます。一発殴られるごとに琥珀さんの閉じられた心の扉が開いて温かな記憶が蘇り、琥珀さんは本来の姿を取り戻すに至ります。ここにおいて、拳という暴力は琥珀さんとのコミュニケーション手段になっていることがわかります。

 SWORD連合に至るまでのドラマ1において、SWORDすべてのチームが山王連合会と何らかの衝突をしていることが指摘できます。山王VS White Rascals、山王(ヤマトたち)VS RUDE、RUDE VS White Rascals、山王VS鬼邪高校、そしてSWOR VS 達磨一家です。彼らはこの時点で山王連合会を仲介としつつ、喧嘩というコミュニケーションを取っていました。そのため、SWORD連合軍のまとまり方も比較的どうにかなったのです。

 また、ザム2においてコミュニケーション手段としての喧嘩の例が顕著に現れるのが村山VS日向 戦です。村山はここで「俺が勝ったらSWORD協定を結べ」と迫ります。村山は日向を言葉で説得するのではなく、暴力、つまりは喧嘩で説得することを選んだのです。

 対照的なのが蘭丸と日向の会話です。蘭丸は言葉で日向を引き入れようとし、さらにその要求も一方的なものでした。そしてその結果どうなったか…おわかりですね。

 このように、HiGH&LOW世界の「文法」とも呼べるのが喧嘩である[6]

 DOUBTにそのような喧嘩によるコミュニケーションは見受けられません。ザムでは数で圧倒したうえにガラス瓶で殴るという非常に卑怯な方法でRUDEをいじめていました。ですが、一見卑怯ではあるが機動力・戦闘力で圧倒的な差があるRUDEを倒すには非常に理にかなった方法です。しかし、この「理にかなった」方法はHiGH&LOWにおいては卑怯な方法として捉えられます。コミュニケーションの文法を無視しているからです。

 そもそもザムまでのDOUBTには主体性が欠落しています。頭目(代理)である高野は女の子の目利きをしているし、平井はララちゃんを攫うことしかしていません。湾岸抗争における「喧嘩しているDOUBT」は、主体性のないただの手数であることが指摘できます。

 また、大勢で少人数の集団を囲むという戦法は一般的には正々堂々とした戦法であるとは捉えられません。つまりDOUBTは、悪の記号としてうじゃうじゃいるうえに卑怯な手を使う集団といえます。そして彼らの「卑怯」さは仲間内にも適用され、蘭丸が踏んづけられても彼らは逃げていきます。拳によるコミュニケーションを用いた「つながり」がない(とされている)からです。

 まとめると、HiGH&LOWにおける傷害=喧嘩はHiGH&LOWにおける文法を共有している人物たちの間ではコミュニケーションとなるが、主体性を欠くDOUBTはその文法外にいる匿名性の高い集団であり、ディスコミュニケーションという形でもって、DOUBTは卑怯な悪役の記号を与えられているのであるということができましょう。

 

[1] E.M.フォースター『小説の諸相』中野康司訳、みすず書房1994年99-107頁

[2] 伊藤 剛『テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』NTT出版 2005年

95~97頁

[3]田切 博『キャラクターとは何か』筑摩書房 2010年118頁~120頁

[4] ドラマ2で「木村」というキャラクターが出現したが以後登場していないことと三要素を完全には満たしていないことから割愛する。

[5] HiGH&LOW大図鑑 http://high-low.jp/cast/endofsky/index.phpより

[6] 「子どもの世界の」文法である