きつねにっき

推しに引かれて善光寺

仮面ライダービルドの話

 悪の組織の名前が「ファウスト」っていうから見て見たらとんでもなく面白かった仮面ライダービルド。さらに今まで考察してきたハイローの悪徳スカウトDOUBTの一人にして蘭丸の片腕平井を演じた武田航平が参戦したことにより事態は混沌を極めていた!という話です。

 

 子どもだけではなく、大人も楽しめるコンテンツとして成長著しい仮面ライダーシリーズ。私はひょんなことから昭和一号ライダーを視聴していた20代という時間軸が少々バグった視聴者ですが、久しくライダーからは遠ざかっていました。エグゼイドで身の回りの人たちがバイクと医者とゲームで心が踊っているのを横目に「おっ楽しそうだな!オラも負けてらんねぇぞ!」とばかりに楽しく韓国映画で人の手首が飛んで行くのをドドドドドと見ていたクチです。これでいい…。(ちなみにエグゼイドもドドドドドと完走しました)

 しかし。仮面ライダービルド、一筋縄では行かなかった。

http://www.tv-asahi.co.jp/build/

 火星から持ち帰られたエネルギー物体「パンドラボックス」の謎の作用により突如生まれた「スカイウォール」によって日本は東都・西都・北都の三つに分かれてしまった。その事件から十年後、冤罪を着せられたうえ謎の人体実験から命からがら逃げだした元格闘家の万丈は、仮面ライダービルドこと、天っっ才物理学者(ここ大事)桐生戦兎と出会う。戦兎は一年前に記憶を失くしており、自身を拾ったというカフェのマスター・石動惣一とその娘石動美空と共に暮らしながら、東都の街に出没する怪人「スマッシュ」から人知れず市民を守っていた。自分が万丈と同じく謎の人体実験を受けたと考えた戦兎は、万丈と共に、徐々に悪の組織「ファウスト」の謎に近づいていく。そして戦兎と万丈は軍事兵器として仮面ライダーを利用しようとする勢力や軍事力強化を狙う東都政府の思惑に巻き込まれていく…といった感じの筋書。

 

youtu.be

 

  愉快なかんじ。

 

 記憶喪失の主人公が新たなアイデンティティを仲間たちとの相互コミュニケーションの中で作っていくという自己形成物語の要素、「軍事兵器としての仮面ライダー」という筋書き、戦争、父親殺し、女性性が大きなキーワードとなるモチーフの利用など面白い点がたくさんあります。子ども向けと言いながら、人間が文学や神話において扱ってきたテーマをリフレインしつついつだって混沌の「現在」を生きる我々の物語として成立させているという点は、創作物としてのあるべき姿を適切に体現していると言えるでしょう。

 筆者は畜生ムーブを繰りだすクソ外道おじさんことブラッドスタークの活躍に夢中です。可愛くて健気でいたいけな若者たちをもてあそぶ「父親」です。

 

 今回は仮面ライダービルドについて思うことがありすぎるので

  ・ ファウスト文学の観点から見る仮面ライダービルド

  ・ 果たして桐生戦兎は父親を殺せるか

 という二つのトピックについて叫びたいと思います。

林蘭丸というひとのこと おわりに

 以上、DOUBTと蘭丸の異質性について論考してきました。結果、DOUBTも蘭丸も、HiGH&LOWにおける喧嘩によるコミュニケーションの埒外にいると同時に、HiGH&LOWの理念の外にいるということが示され、彼らの異質性はこれに基づくディスコミュニケーションに起因するということが説明されたことと思います。

 蘭丸はROCKYの対比物として完膚なきまでに悪役であり、幼稚なキャラクターです。しかし、このようにシステマティックに作られた蘭丸を中村蒼が人間として演じ、ザム2ラストシーンでの笑顔、平井の焦燥という描写によって、本編だけでは処理しきれない情報が発生しました。「悪」「幼稚性」という要素の隣に大きなブランクが発生したのです。さらにインタビューという場で中村蒼が大暴れしたため観客(というか主に筆者)の蘭丸に対する情報は不完全な形で補完され、混迷を極めています。

 ともあれ、蘭丸の持つ異質性は蘭丸という登場人物を我々がどう「消費」するかという点においても着目すべき点であると主張します。彼はアクションの華々しさでは一見劣るかもしれない。しかし彼のアクションがROCKYと被るのには意味がある。ボスとしては一見善信に食われている。だが彼は子どもの世界の王様であり、彼が大人に倒されることは、物語に大きな展開をもたらすキーポイントとなりました。

 蘭丸を、ひいてはHiGH&LOWを読み解く方法は一様ではありません。本稿がHiGH&LOWの読解の多様性を担保する一助となれば幸いです。

 末筆になりましたが、本稿は全て敬称略で記しました。

 とにかく、HiGH&LOW THE MOVIE 2 END OF SKYは2月21日発売です!

林蘭丸というひとのこと 4 平井と高野のこと

補論 平井と高野について

 そんなわけでとにかくしんどい蘭丸に付き従うのが平井と高野です。平井は悪徳スカウトをまとめ、高野は羅千地区を取り仕切っていたといいます[1]。何がどうなってこうなったのかはスピンオフ待ちではありますが、とにかく、二人羅千刑務所に収監された蘭丸を待ってDOUBTを維持していました。

 三人になったDOUBT幹部を見ると、ROCKYを囲むカイトとキジーの構図と対になるように、蘭丸を囲む高野と平井の図が完成します。平井はキジーに「蛇蝎の如く嫌われているらしいです[2]」。恐らく、女性を売り飛ばす平井は女性であるキジーにとってみたら許せないものだから、という推察が可能ではありますが、そこについてもスピンオフ待ちです。はよ。

 平井・高野両者のビジュアルは、ザム2における第一次黒白堂抗争の回想シーンを見ると、蘭丸が収監される前に戻っていることが確認できます。是非とも円盤でご確認ください。また二人は第二次黒白堂抗争の直前、全く同じタイミングでハーフグローブを手につけています。

 ザムやドラマに比べ、明らかに二人は楽しそうです。ザム2前半、Rascals奇襲戦において平井は「ひょーっひょひょーっクマちゃーん!![3]」と、高野は「へいへーい![4]」と手を叩きながらKOOさんを煽っています。ザムでの二人は女性を値踏みするかララちゃん誘拐するかしかしておらず、なんなら台詞も喧嘩シーンもありませんでした。しかしここにきて二人は水を得た魚のようにイキイキと悪事に精を出しています。

 特にこうした点において明らかな描写があるのは平井です。平井は前述の「クマちゃん」発言におけるテンションの高さの他、プリズンギャング登場時のコインファイト時の舌打ちから読み取れる苛立ちなど、今までに見せたことのないほど多彩な表情を見せています[5]。高野についても、蘭丸の「仲間なんて所詮自分のことしか考えてねぇ」という台詞の時に蘭丸の後頭部をじっと見つめています。

 ここから読み取れることは、少なくとも二人は蘭丸の出所を望んでいたということであり、蘭丸の鉄パイプ持ってばぶばぶしてる感じに惚れこんでいるだろうことが推察できます。

 HiGH&LOWにおける「大人」の必要条件が「守るものがある」であるならば、もしかすると平井と高野はその条件を持っている登場人物ではないでしょうか。彼ら二人はDOUBT、つまり蘭丸の場所を確保して待っていたのです。そうすると、幼稚性を強調される蘭丸との対照が際立ちます。子どもの王様を頂くお兄ちゃんみたいな状態ですね。

 両者の表情の白眉は最終幕で見せた、善信に踏んづけられる蘭丸をみる表情です。この瞬間こそ、それまで集団としてしか認識されていなかったDOUBTが人間になってしまった瞬間です。DOUBTの脱記号化はつまり、他のモブダウトと衣装や性格の上でほとんど差異がなかった高野と平井の脱記号化でもあったと考えられます。

 蘭丸は、「仲間なんて所詮自分のことしか考えてねぇ」と言い放つことからSWORDの「一斗缶みたいにあったけぇ」絆を持つことが出来ない人間であり、HiGH&LOWにおいて非常に異質な存在であると示してきました。しかし、善信に踏まれる蘭丸を呆然と見つめる平井と高野の姿を見れば、彼らは彼らなりに蘭丸を気に入っていることがわかります。そして蘭丸はコインファイトの後に戻ってきた彼らを見て、身を乗り出しました。まるで親を試す子どものように。

 蘭丸、平井、高野は覇道をいく悪漢のつながりでもって、「遊ぼう」と嘯きながら世を闊歩していくことでしょう。そこにSWORDの子どもたちが持つあったかい絆は存在しません。「全員主役」から零れ落ちた孤独の蟲毒の結果がDOUBTの三人であり、我々観客を魅了して止まない「悪い子どもたち」なのです。

 

[1] HiGH&LOW大図鑑

[2] 特典とパンフレット

[3] 筆者による渾身のリスニング…が間違っていたので字幕情報ではあるが、文脈的にアライグマでは…という疑念は拭いきれない。平井、動物好きなのかな。

[4] 同上

[5] 左手薬指だけマニキュアが白い点については平井を演じる武田航平曰く「ちょっとしたこだわり」(本人のインスタグラムより)だそうな。

林蘭丸というひとのこと 3

 今回は、DOUBT創始者である蘭丸の異質性について指摘したいと思います。

 中村蒼は蘭丸の生い立ちを「貧困の中で性産業に従事する母親に虐待[1]された挙句、一家心中で生き残ってしまった」「金と力があれば家族を守れたのに、と思ってしまった」と述べています[2]。そしてこの蘭丸に関する情報は作品の中で明かされることはありませんでした。

 

2.1 キャラクター論的観点から

 蘭丸を前述のキャラクターの定義に基づいて作品から得られる情報のみに従って分析すると、以下のような結果が得られます。

 

固有名

林 蘭丸

意味

・悪のスカウト集団の創始者  ・暴君  ・金で動く ・ROCKYの対照物

図像

中村蒼 ・「綺麗な顔」 ・赤いファーコート ・黒のハイネック ・革靴 

・ネックチェーン

内面

・残虐  ・利己的  ・他人を信頼しない ・子ども

 

 表とは前後しますが、初めに図像について考察しようと思います。

 服装は黒ずくめのDOUBTの中で浮き上がる深紅のファーコートとして設定されています。今冬の流行も相まってHiGH&LOW全体の中でも異彩を放っていました。FOREVER21に行ったところ赤いファーコートがありました。試しに来てみたらめちゃくちゃ暖かかったです。黒のハイネックは、後述するROCKYとの対称性[3]から推察すると恐らく首を絞められた痕があるのではないかと思われます。ネックチェーンは平井とお揃いの可能性が非常に高いのですが、この点については後述します。また、ザム2終盤、九龍グループの善信による「綺麗な顔」との発言がありました。多くの観客が指摘するように、この発言がなされた状況と彼の「蘭丸」という名前から性的なニュアンスを読み取ることは難しいことではありません。

 内面を見れば、残虐、利己的、他人を信頼しないと悪役的要素がこれでもかと詰め込まれています。こうした性格をもつ人物は、HiGH&LOWの、特に子どもの世界であるSWORDやMUGENの子どもたちの間においては恐らく初出でしょう。李さんでさえもっと愛嬌がありました。蘭丸のことを「絶対悪」と表現するインタビュアーも存在しました[4]

 しかし、これらの性格、そして物語における意味を見れば、ある一つの結論に収束が示されます。すなわちそれは「幼稚性」であり、さらにはROCKYとの対比です。この対比関係こそがザム2における対立軸であり、最終的に蘭丸はROCKYの成長過程に飲み込まれてしまうのです。

 

2.2 残酷さとして発現する幼稚性

 蘭丸の幼稚性については彼の行動・演出から読み取ることが可能であり、また彼が「遊ぶ」というときそこに暴力が介在することが指摘できます。

 蘭丸の登場時のBGMはオルゴールです。このオルゴールBGMは対ROCKY戦において鎖を発見した時にもかかっています。この時、直前までかかっていたDOUBTのチームソングである『ASOBO!』はこのBGMによってかき消されました。この際、蘭丸は垂れさがっている鎖を見つけると、おもちゃを発見した赤ちゃんの如く笑いながらROCKYの首に巻き付けます。また、BGMはかかりませんが何に使うのかわからないほど大きなレンチを見つけてROCKYの頭にフルスイングするときもげへげへ笑っています。仲間から鉄パイプを奪ってRascalsのモブを殴る時、また回想で警官を棒で叩いている時もあひゃあひゃ笑っていました。加えて、DOUBTのアジトで行うコインファイトを行う際の台詞は「ちょっと遊ばねぇか」です。そしてROCKYとの対戦にあって、彼は何度も笑っていました[5]。もう完全に赤ちゃんがばぶばぶしている状態でしょう。ばぶぅ。

 こうした点から、蘭丸の「遊び」はすなわち喧嘩であることが指摘できます。前述したように、喧嘩は彼らにとって何かを守る手段であり、HiGH&LOWにおけるコミュニケーション文法に伴って生まれるものです。しかし蘭丸は喧嘩を、コミュニケーション手段ではなく遊びとして捉えています。もちろん第二次黒白堂抗争はDOUBTの縄張りを取り戻すことが第一目的としていましたが、それ以上に彼は喧嘩を楽しんでいると考えられ、そこにおける喧嘩シーンでの笑い、BGMから、蘭丸の幼さが明示されているといえます。

 それと同時に、蘭丸がSWORDや他の面々が持つコミュニティから断絶していることがわかります。彼の喧嘩はコミュニケーションではないため、誰とも心を通わすことができません。彼の喧嘩は相手の尊厳を奪い、苦しめ、自分が楽しむための喧嘩であり、そこからは誰ともつながることができない。これは主体がないモブダウトたちとは全く違う理由でのディスコミュニケーションということができましょう。

 第一章で行った、EXILE PYRAMIDの一節を再び引用します。「このEXILE PYRAMIDに属するメンバーは、一人ひとりが交流して刺激し合い、活動の幅を広げ、新しいエンタテインメントの可能性に挑戦していきます。[6]」。蘭丸は交流することができません。そのため、このPYRAMID、世代からは隔絶した完全に外の存在である[7]

 

2.3 ROCKYとの対比から

 蘭丸とROCKYとの間には明らかな対比関係があります。

 

蘭丸

ROCKY

母親に虐待を受ける

父親に虐待を受ける

一家心中の末生き残って「しまった[8]

父親の虐待に耐えかねた母親と姉が自殺

女性は金を産む道具

女性は守るべきもの

仲間は自分のことしか考えていない

仲間を信じ、巻き込まないよう守る

愛された記憶がある

 

上記の表で示した対比は、ROCKYの過去を象徴するための人物として蘭丸が造形されたと考えるに十分といえるでしょう。蘭丸は、道を違えたROCKYであり、ROCKYは道を違えた蘭丸である。つまり、蘭丸はROCKYが持ち得たかもしれない暴力性・利己性を担っているのです。二人のファイトスタイルが似通っているのもここに理由があると考えられます。

 第二次黒白堂抗争の終盤、蘭丸の手を捕縛して拳を振り続けるROCKYのシルエットは、言うことを聞かない子どもを叱る母親のそれでした。ROCKYは自分が持ったかもしれない無差別な暴力性を、自分を愛した母親の姿でもって叱るのです。ここに、蘭丸個人の自我は存在しません。なぜなら、この場において蘭丸の機能は「ROCKYの乗り越えるべき過去」以上のものを持たないからです。

 蘭丸は残虐性と幼稚性を持った子どもである。彼は「境界線なんかいらねぇ」と嘯いた挙句、境界線の向こうの大人、九龍グループによってその残酷さ、悪役という意味を簒奪されることとなります。

 

2.4 SWORDの暗黒面として

 SWORD地区を取り巻く環境は決して明るくありません。山王商店街は潰れかけているし、ラスカルズを取り巻く夜の世界には危険が満ちています。鬼邪高校はヤクザ養成校としての側面を持っていたし、無名街は爆破セレモニーされ、達磨一家もよくよく考えれば賭博稼業です(あれが違法でなかったならば右京さんはザム2に出ていたでしょうに)。

 しかし、彼らは腐ることなく明日を信じて「正しく」生きようとする。それは彼らが互いに切磋琢磨し、信頼し、協力しあうことができるからです。つまり、「ともに戦い、ともに強くなる」ことができる。

蘭丸にはそれができなかった。

 彼の出自は貧困と虐待に満ちています。おそらく、彼は母親に愛された記憶がないのでしょう。中村蒼の、「お金があればこうはならなかっただろうし、自分に力があればこうはならなかったという気持ちで大きくなった。[9]」という言葉から、彼は自らを取り巻く人間への信頼を持ちえないまま成長したのだと考えられます。また、前述したように善信の「綺麗な顔してんじゃねぇか」という発言に対する笑顔、「蘭丸」という名前から、性的な歪みのニュアンスを読み取ることは困難ではない。悲惨な越し方を想起させる記号がありすぎます。

 DOUBTを結成する前、羅千地区を「恐怖に染め上げていた[10]」蘭丸は、誰からも愛されることも、信頼されることもなかったでしょう。そのため、蘭丸には人を信頼することができません。さらに蘭丸はHiGH&LOWにおけるコミュニケーションの外にいる。よって、蘭丸自身がどうにかして変わらない限り、誰も彼と本当の意味で交流することができない。

 残酷なことに、この点はROCKYと対比され、さらに勝敗を決めるクリティカルな一点として利用されています。ROCKYは蘭丸と同じ立場にありながら、かつて母と姉に愛されたという記憶が彼と仲間を繋ぎ、White Rascalsを立ち上げ鼓舞する原動力となっています。ROCKYは仲間を愛しているのです。愛と誇り、勝利を掴むヒーローとして、これ以上十分な資格があるでしょうか。

 「ともに戦い、ともに強くなる」「痛みを知るから強くなれる」―― HiGH&LOWのこの暖かい仲間からはじき出された、こころの通じない残酷な子ども。何も与えられなかったために、未来を獲得できない子ども。これこそ蘭丸の異質性といえるでしょう。

 

[1] 筆者は児童虐待を専門としているわけではなく、皮相的に語るにはあまりにも心が痛む事項であるため深入りはしないが、蘭丸の性格に見られる特徴と被虐待サバイバーに見られるPTSDの主訴は驚くほど似ていることをここに補足しておく。

[2] 中村蒼先生インタビュー https://www.oricon.co.jp/news/2095874/full/

 他にもたくさんインタビューがあるよ!

[3] ROCKYの母と姉は首を吊って自殺している

[4] 『HiGH&LOW THE MOVIE 2』脚本家・平沼紀久が語る、“ユニバース化”する物語世界とその作り方http://realsound.jp/movie/2017/08/post-98575_3.html

[5] 善信の「綺麗な顔」発言に対する笑顔はなんやねん問題も観客の心を苦しめるが、第3節で述べた虐待に基づく防衛本能としての笑顔だと考えることも可能である。無理。

[6] https://www.ldh.co.jp/pyramid/index.html

[7] 林蘭丸の演者がLDH俳優でない理由もここに求められる。

[8] 中村蒼先生インタビューより。

[9] 中村蒼インタビュー

[10] HiGH&LOW大図鑑

林蘭丸というひとのこと 2 ダウトのこと

 今回は、キャラクター解釈において本稿で準拠するキャラクター論について述べた上で、DOUBTという組織全体に漂う「異質性」について考察します。

 

1.1 キャラクター論の観点から

 ここではキャラクター論という観点から集団としてのDOUBTを分析します。そもそもキャラクターとは何か。一般にキャラクターとは文学作品や漫画における登場人物の事を指します。二十世紀イギリスの小説家E. M. フォースターは、小説における登場人物を「平面的人物」と「立体的人物」に分け、前者を類型的な人物像とし、後者を複雑な人物像としました[1]。しかしフォースターの定義は小説を基にしているため、図像を伴った登場人物の定義には至りませんでした。後に、マンガ分析の文脈において、図像を伴った登場人物を「キャラ」と「キャラクター」に分けたのは伊藤剛です。伊藤は、固有名で名指される、あるいはそれを期待させ、簡単な線画で描かれた絵としてのキャラクターそのものを「キャラ」とし、その存在感を基盤として「人格」をもった「身体」としてその人生を想像させる存在を「キャラクター」としました[2]。小田切はこの論をさらに進め、「キャラクター」とはビジュアルとしての「図像」、劇中で成長などの変化が可能な「内面」、そのキャラクターの属性や類型としての「意味」の複合体であり、そのうちの一要素でも保持されていればキャラクターの同一性は担保されると述べています[3]。つまり、キャラクターとはビジュアル面としての「図像」、物語の中において表出する「内面」「意味」の三要素からなる存在であるといえましょう。

 これらの定義を踏まえて、DOUBTの中でキャラクターとして成立しているのは蘭丸、高野、平井のみです[4]。あとの有象無象のDOUBTたちは全て、フォースター述べるところの「平面的人物」、つまりは悪のモブとしての類型的人物であるといえます。

 構成員のみならず、このチームにおける類型的人物の割合は他のチームと比較すると突出して高いです。ここにおいてDOUBTに最も求められるのは三要素の内「悪役」という「意味」のみであることがわかります。これは当初DOUBTの頭目とされていた高野と平井のビジュアルが、他のDOUBT構成員とはっきりした差別化がない没個性的なビジュアルであったことからも推察できます。

 また、組織という観点からみたDOUBTは縄張りもはっきりしない、流動的な集団です。山王のように地縁に縛られているわけでもなく、揃いの法被も制服もない。蘭丸・高野・平井やごく少数の固定メンバーを除けば、多くが流れ者であろうと推察できます。また、ザムにおける1000人のエキストラの大半は、おそらくDOUBTに割り振られていると考えられます。加えて、山王やWhite Rascalsのようにトップの意思が末端まで行き届いている組織ではないということもSWORDとは対照的です。ここからもDOUBTが基本的には悪のモブとして扱われていることが指摘できます。

 

1.1 DOUBTの役割 

 DOUBTの特徴を簡潔にまとめると「極悪スカウト集団[5]」として表現することができます。商店街の青年団である山王連合会、黒服集団White Rascalsや高校生自警団テキ屋乱暴にまとめました)と比べると、誠に残念ながら率直に申し上げて犯罪集団です。

 DOUBTの行った悪事は以下のような行為です。

 

  • 人身売買 ドラマ1-ザム
  • 薬物売買 ドラマ1
  • 詐欺   ドラマ2(明確な言及は平井のみ)

・ 傷害   全部

・ その他破壊行為  全部

 

 これらの犯罪行為は山王連合会をはじめとする他のチームにおいて、というか基本的に許されない行為です。人身売買は明らかな人権侵害であり、到底許されるものではありません。この点に関してはWhite Rascalsがそのアイデンティティでもって明確に対立軸を打ち出しています。また、薬物売買は経済的な困窮が激しいRUDE BOYSでさえ禁忌としています。もちろん、現実世界においても犯罪行為である薬物売買を主人公サイドが行うことは許されません。つまり、このシリーズ序盤において薬物売買を行うチームとしての描写は、「極悪スカウト集団」という言葉以上にDOUBTを明確な悪役とすることに貢献しています。薬物ダメ絶対。

 しかし、傷害に関しては喧嘩をする以上HiGH&LOWに登場する人物全員が避けて通ることができない問題です。だが、DOUBTのそれは他の登場人物とは大きく違います。

 ザムを例に挙げると、暴走し張城と手を組んだ琥珀さんを正気に戻すにあたり、九十九、コブラ、ヤマトが壊れた電化製品を叩くがごとく琥珀さんを殴り続けます。一発殴られるごとに琥珀さんの閉じられた心の扉が開いて温かな記憶が蘇り、琥珀さんは本来の姿を取り戻すに至ります。ここにおいて、拳という暴力は琥珀さんとのコミュニケーション手段になっていることがわかります。

 SWORD連合に至るまでのドラマ1において、SWORDすべてのチームが山王連合会と何らかの衝突をしていることが指摘できます。山王VS White Rascals、山王(ヤマトたち)VS RUDE、RUDE VS White Rascals、山王VS鬼邪高校、そしてSWOR VS 達磨一家です。彼らはこの時点で山王連合会を仲介としつつ、喧嘩というコミュニケーションを取っていました。そのため、SWORD連合軍のまとまり方も比較的どうにかなったのです。

 また、ザム2においてコミュニケーション手段としての喧嘩の例が顕著に現れるのが村山VS日向 戦です。村山はここで「俺が勝ったらSWORD協定を結べ」と迫ります。村山は日向を言葉で説得するのではなく、暴力、つまりは喧嘩で説得することを選んだのです。

 対照的なのが蘭丸と日向の会話です。蘭丸は言葉で日向を引き入れようとし、さらにその要求も一方的なものでした。そしてその結果どうなったか…おわかりですね。

 このように、HiGH&LOW世界の「文法」とも呼べるのが喧嘩である[6]

 DOUBTにそのような喧嘩によるコミュニケーションは見受けられません。ザムでは数で圧倒したうえにガラス瓶で殴るという非常に卑怯な方法でRUDEをいじめていました。ですが、一見卑怯ではあるが機動力・戦闘力で圧倒的な差があるRUDEを倒すには非常に理にかなった方法です。しかし、この「理にかなった」方法はHiGH&LOWにおいては卑怯な方法として捉えられます。コミュニケーションの文法を無視しているからです。

 そもそもザムまでのDOUBTには主体性が欠落しています。頭目(代理)である高野は女の子の目利きをしているし、平井はララちゃんを攫うことしかしていません。湾岸抗争における「喧嘩しているDOUBT」は、主体性のないただの手数であることが指摘できます。

 また、大勢で少人数の集団を囲むという戦法は一般的には正々堂々とした戦法であるとは捉えられません。つまりDOUBTは、悪の記号としてうじゃうじゃいるうえに卑怯な手を使う集団といえます。そして彼らの「卑怯」さは仲間内にも適用され、蘭丸が踏んづけられても彼らは逃げていきます。拳によるコミュニケーションを用いた「つながり」がない(とされている)からです。

 まとめると、HiGH&LOWにおける傷害=喧嘩はHiGH&LOWにおける文法を共有している人物たちの間ではコミュニケーションとなるが、主体性を欠くDOUBTはその文法外にいる匿名性の高い集団であり、ディスコミュニケーションという形でもって、DOUBTは卑怯な悪役の記号を与えられているのであるということができましょう。

 

[1] E.M.フォースター『小説の諸相』中野康司訳、みすず書房1994年99-107頁

[2] 伊藤 剛『テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』NTT出版 2005年

95~97頁

[3]田切 博『キャラクターとは何か』筑摩書房 2010年118頁~120頁

[4] ドラマ2で「木村」というキャラクターが出現したが以後登場していないことと三要素を完全には満たしていないことから割愛する。

[5] HiGH&LOW大図鑑 http://high-low.jp/cast/endofsky/index.phpより

[6] 「子どもの世界の」文法である

林蘭丸というひとのこと 1 HiGH&LOWという物語のこと

今からゆっくり吐き出していくわけですが、人によっては「見てたらわかるやん!」を改めて文章にしていった感じになるかもしれないのでご寛恕いただけると幸いです。

また、当該作品内において描写される諸々の違法行為(喧嘩とかマハラジャボンネットとか)を礼賛する文章ではないことを先におことわりしておきます。

 

はじめに

 今からのお話は2016年からスタートしたテレビドラマ、映画『HiGH&LOW』シリーズにおける悪役『DOUBT』とその中心メンバーである蘭丸が、当該シリーズにおいてディスコミュニケーションという点で異質であることを論証しようというものです。

 

 DOUBTはHiGH&LOWにおける悪役であり、内実共に主体性がなく無個性で類型的な悪の「手数」として扱われています。劇中の言葉を借りれば、「雑用[1]」係です。つまり、「何か悪いこと」が必要な時にはDOUBTが使われます。

 ザムまでのDOUBTはこうした「悪の記号」として存在していました。しかし、創始者である林蘭丸(以下、蘭丸)が登場するザム2において、DOUBTは今までの作品とははっきりと異なった動きをみせます。そこでは悪の記号・象徴として扱われたDOUBTがSWORDと同じく子どもであることが暴露されます。それに伴って悪の象徴が全貌を現した九龍グループへと移行し、「子どもの世界の悪」が終わりを告げるという、悪の脱記号化とも言うべき興味深い現象が発生しているといえましょう。

 だというのに、DOUBTザム3でその存在を抹消され、エンドロールにすら登場しません。さらに、ネット上の大手HiGH&LOW有識者の間でも、ザム3そのものの賛否が激しく問われたためほぼこの点についての言及はありませんでした。また、SWORDのメンバーに対する考察は多数存在するが、DOUBTに考察の対象を絞ったものは今のところ数は多くありません。教えて下さったら読みにまいりますので是非…。

 そのため、本稿はDOUBTの異質性とそれゆえの魅力を指摘し、HiGH&LOWの読解の幅を広げることを目的としています。

 

0.1 各エピソードの整理

 本論に入る前に、ここではHiGH&LOWの各エピソードの内容を整理しておきましょう。ここで取り扱うHiGH&LOW作品は以下の通りです。

 

  • ドラマシーズン1
  • ドラマシーズン2
  • HiGH&LOW THE MOVIE (以下、ザム)
  • HiGH&LOW THE MOVIE RED REIN (以下、レッレ)
  • HiGH&LOW THE MOVIE END OF SKY (以下、ザム2)
  • HiGH&LOW THE MOVIE FINAL MISSION (以下、ザム3)

 

本稿では、主にザム2を取り扱うこととなりますが、他のエピソードとどういった違いがあるのでしょうか。各エピソードを登場人物視点から整理し、ザム3への道筋を示して比較すると、以下のようになります。

 

 

描かれたこと

描かれたことの意味

ドラマ1

(30分10回)

・レッドラム

・家村会との対立

(ノボルと二階堂)

・達磨一家との対立

・山王連合会の説明

・各チームの概説

・達磨一家

 (日向紀久の成長?)

ドラマ2

(30分10回)

・MUGENの過去

・鬼邪高校全日定時激突編

・ROCKYの過去

・RUDE BOYSの過去

・マイティマイティウォーリアー

・MUGENの説明→ザムの燃料

・村山さんの成長

・ROCKYの説明

・RUDEの説明

・マイティマイティウォーリアーの説明

ザム

・張城との対立

琥珀さんとの対立

・SWORDの結びつき

琥珀さんを叩いて直す

レッレ

・上園会との対立

・不正の提示

・雨宮兄弟の成長

・USB争奪戦への布石

ザム2

・九龍グループとの対立

・ご新規の登場人物

 (九龍、プリズンギャング、蘭丸)

・DOUBTとの対立

・USB争奪戦

・White Rascals≒ROCKY中心

 → ROCKYの成長

・九龍グループの説明

・別のボスのほのめかし

・暴露の失敗 → ザム3への布石

ザム3

・九龍グループとの対決

・秘密の暴露

・MUGEN、RUDE中心

 → RUDEの成長

・SWORD全体の成長

 

 こうすると、HiGH&LOWとは若者たちの友情を描くとともに、彼らの成長を描く自己形成物語(ビルドゥングスロマン)といえましょう。

 この自己形成物語としての展開は、HiGH&LOWを制作するLDHの組織システム「EXILE PYRAMID」とも深く関係していると考えられます。このシステムについては以下のように述べられています。

 

 このEXILE PYRAMIDに属するメンバーは、一人ひとりが交流して刺激し合い、活動の幅を広げ、新しいエンタテインメントの可能性に挑戦していきます。[2]

 

次の世代も、きっともっと、笑顔でありますように。[3]

 

 このピラミッドは人数的な問題のピラミッドであって、序列ではないと明言されているということは先に述べておきます。ともあれ、ここでわかるように、EXILEは「世代」という言葉を非常に重視しています。この「世代」という構造はHiGH&LOWにおいても同様、ドラマシーズン1からザム3までの間は「SWORD第一世代」の物語であると明言されていました。つまり、SWORDメンバーはこのピラミッドの中の住人でありEXILE PYRAMIDの構造はそのまま、SWORDの構造にも適用できると考えられます。つまり、HiGH&LOWとは数世代にわたる子どもたち一人一人の同時多発的自己形成物語であります。そして彼らが大人になった今、物語は次世代へつながっていく…のかな。

 

0.2 ザム2の特殊性について

 この項では主な考察対象となるザム2の特殊性について述べます。ザム2は違う筋の物語が同時並行で進んでおり、物語の時間に比して突出して情報量が多いことが指摘できます。ザムはドラマ1、ドラマ2ですでに登場した人物が活躍する物語であり、情報量としては負担にならない量でした。レッレは新たに追加された人物が上園会と弁護士親子、雨宮尊龍のみでしたし、ザム3はこれまでの作品で提示された情報が無名街の公害問題に一気に収束していくため、提示される新情報は多くても過多とまではいきません。

 しかしこれらに対し、新たな(もしくは変化した)登場人物が増えた[4]うえ、冗長な会話部分を排することによって前作よりも明らかに跳ね上がった映画としての質、観客の頭を直接鈍器で殴るレベルのアクション、バルジって言った?主って言った?問題など、これまでの作品とは一線を画した作品となったのがザム2です。 

 さらにその物語の筋を整理すると、SWORD連合 VS DOUBT・プリズンギャングのパートと雨宮兄弟・琥珀さん九十九さんによるUSB争奪戦パートが存在しており、しかもそれらの筋は交わることはありません。そのため、観客は筋の違う映画を同時に見ている状態に極めて近い状態に置かれます。例えるならば、クローズとワイルドスピードマッシュアップを見ている状態で、さらにアウトレイジまで混ざってくるのだからたまったもんじゃありません。

 ですが、物語を統べる立木文彦のナレーションは、話の本筋が「USBを巡る戦い」であることを示している。そのためSWORDのパートは物語の展開の本筋ではないと考えられます。

 そして今回、このSWORDのパートにおいては、ROCKYの成長儀礼が描写されていると考えられます。

 SWORDの物語が子どもたちの物語であることは言を俟ちません。ですがこの中にあってWhite Rascalsは明確に「店」として商業活動を行っており、他のSWORDの子どもたちより少しだけお兄さんです。パンフレットでもそのへんは言及されていました。

 ドラマでの焼きそばのエピソード[5]があるように、ROCKYの過去はすでに説明されています。ですがが、図で示したように、ROCKYのみドラマ~レッレにおいて成長儀礼が存在していません。ドラマシーズン1、シーズン2、ザムの流れの中でDTCを除く山王連合会[6](シーズン1におけるノボルの帰還)、MUGEN(ザムにおける本来の姿を取り戻した琥珀さん)、鬼邪高校(シーズン2全日定時激突編)の成長儀礼はすでに描写されています。達磨一家はシーズン1からザムの間にかけて成長儀礼が行われているのが日向の「白皙の美少年からマハラジャへ」のイメージチェンジによって表現されているといっていいでしょう。

 なぜ成長儀礼が必要なのか。ここでザムに目を転じると、ザムは徹頭徹尾「子どもの喧嘩」だったことが指摘できます。これは、琥珀さんを唆す李が、張城の「息子」である点からも指摘できます。龍也という「父[7]」を失った琥珀さんは大きな子どもであり、その大きな子どもを叩いて直すのがザムの本質です。琥珀さんの錯乱状態は龍也さんの喪失によるグリーフケアの失敗に原因が求められると同時に、琥珀さん自身が精神的な父としての龍也さんに依存的な状態になっていたことが原因といえましょう。琥珀さんは、コブラやヤマト、九十九さんたちのパンチによって、自分の居場所を再確認して龍也さんにきちんとお別れが言えるようになるのです。キャンベルがイニシエーション儀礼について「成長して、本当に父親を知るようになった息子にとって、試練の苦悩はすでに耐えられるものになっている。[8]」と述べるように、これは明らかな成長儀礼です。

 これに対し、ザム3では九龍グループという「大人[9]」との喧嘩になります。ではこの「大人」とは何か。ここでHiGH&LOWにおける「正しい大人」の定義を確認しましょう。龍也や弁護士、尊龍や西郷などの特徴、パンフレットにおける監督の発言、またHiGH&LOWにおいて何度も繰り返される言葉「痛みを知るから、優しくなれる」から総合すると、HiGH&LOWにおける「正しい大人」とは「痛みを知り」「守るものがあり」「他人を尊重し」「他人を信頼し」「むやみやたらと喧嘩をしない」存在であると定義することが可能となります。無論、年齢的な問題も存在していますが。

 九龍グループの大人たちは、かつては持っていた「他人を尊重する」という点がザム3においては欠けているため、「正しい」大人とは言えません。また、ウキウキ爆破大臣をはじめとする「政府」の人間たちは「痛みを知らない」点から正しい大人とは描かれない。そもそもこの二つの派閥は悪の既成権力として描かれています。

 SWORDの子どもたちは儀礼を重ね「正しい大人」に近づいてきました。そして、ザム2は「子ども同士の戦い」から「大人と子どもの戦い」への段階的なステージの移行がなされる境界的な作品です。つまり、この作品においてメインキャラクター[10]の成長儀礼が完了し、顔見世も済ませることで、最終的な抗争への準備が整うのです。

 ROCKYはザム2で初めてWhite Rascals以外のチームを頼り、勝利します。この他者への「信頼」こそがROCKYに欠けていたものであり、彼がザム2という儀礼で手に入れた大人への条件です[11]

 以上のことから、ザム2はROCKYの成長儀礼としての側面を色濃く持つ作品だと指摘できます。本稿の論証は以降、この点を前提にして進めることとします。

 

[1] ザムにおける李の台詞より

[2] https://www.ldh.co.jp/pyramid/index.html

[3] 同上

[4] 39人

[5] ギャンブルに狂った父の借金を苦にして母と姉が自殺、母が作って残しておいた焼きそばを食べて家を出奔した後大人になるROCKYのエピソード。(ドラマシーズン2)

[6] 正確には元・MUGENの二人とノボルの成長儀礼であり、DTCの儀礼としてはザム3を待たねばならない

[7] 精神的な父を指す

[8] J. キャンベル『千の顔を持つ英雄 上』倉田真木他訳、早川書房2015年221頁

[9] 本来は九龍グループも「九世龍心を父に頂く子どもたち」であるとの指摘も可能である。だが、SWORDを潰したがっているのは龍心なので、龍心存命中は大人との戦いであると考えられる。

[10] SWORDの頭たちとMUGEN、雨宮兄弟たちを指す。スモーキーさんは大人の事情でザム3に繰り越しである。

[11] 無論、LDHのパワーバランス的な面から今回はROCKYを中心に据えたとすることも否定できないし、実際そう言った面もあるだろう。

林蘭丸というひとのこと

はじめまして。

このブログを利用しようと決めたきっかけは、2月に『HiGH&LOW THE MOVIE 2 END OF SKY』のDVDが発売されることです。

私はこの映画に登場する「林蘭丸」という登場人物をこじらせ、結果的に闇鍋めいた考察文を生成しました。

長い(一万字を越えました)ので何回かにわけますが、ゆっくりとこの文章を公開していけたらいいなと思います。

それ終わったらまあ、仮面ライダーとか映画とかの話をしたいなぁと思います。