きつねにっき

推しに引かれて善光寺

ビルドのこと 先に書いておきたいこと

 

 

 「仮面ライダービルド」について書こうと思った矢先、大杉漣さんの訃報に愕然としていたらビルドの方でもいろいろなことがありました。

 今回は主にビルドが戦争を扱っていることに関し、その描写の軽重について韓国の視聴者から疑問の声が発せられました。ほぼ独り言のブログですが、考えたことを書いておこうと思います。最終回を見た後に見返すために。

 自分の視点はかなり文学モチーフを追う方に傾き、少しばかり狭かったなぁと猛省しています。

 分断国家に生きている人たちからすれば、確かにあの描写に疑問符をつけざるを得ないと思います。そして、そこに住む当事者として意見を表明してくれた方々に敬意を表します。

 その一方で、スポンサーや時間帯など様々な制約下におかれた制作側が頑張った結果だったのだろうとも感じますし、真面目な作りであるとも思います。ただ、制作側は戦争を扱うことをもっと慎重に考え、発言するべきだったという意見は甘んじて受け止めるべきでしょう。

 ただ、リアルに戦争を描くことが本当に戦争を描いたことになるのか、それは「子ども向けと銘打たれた枠内で大人のリアリティに接近した」という作り手と、それを賛美する視聴者による自己満足になりはしないかという疑問もあります。この疑問は、「戦争の本質とは果たして何なのか」という疑問につながると考えます。

 毎週見ていて、「人が人を傷つける・害すること」に関して仮面ライダービルドは(24話視聴後現在においては)真面目に取り組んでいると感じます。そうした点から、この作品では「国家間の対立」という大きな視点よりも、それに伴う「人間同士が殺し合う」という小さな視点から戦争を描こうとしているのかな、と思います。スカイウォールは大型飛行機などの物体は通り抜けられないのでちっちゃい仮面ライダーや密航船、スターウォーズに出てきたAT-ATみたいなやつしか行き来できないという設定は、そうした小さな視点を描くためだとしたら頷けます。また、北都の面々の民間人への危害を加えないとした発言も、彼らが生粋の軍人ではなく農家の人であり、不本意に戦わざるを得ない「人間」なのだという描写だと考えればその殺し合いの理不尽さがよりわかりやすくなるのではないでしょうか。理不尽な殺し合いというのは、戦争の本質のひとつであるといえます。望まないのに人を殺めたこと、誰かを助けたいのに誰かが傷ついて行くこと。こうした理不尽を子どもたちに「わかりやすく」見せるというのは、子供向け番組で戦争を扱うアプローチのひとつだと考えます。これはフィクションだからこそ描ける理不尽さではないでしょうか。

 しかしこうした理不尽な殺し合いを、今現在苦しんでいる人のいる国家間の争いごととわざわざ銘打って描写するべきことだったのか、理不尽な殺し合いを描く手段はほかにもあるだろうと言われると答えに窮します。

 本作はまだ折り返しの地点にあります。この先の展開や、ライダーシステムがなぜ造られたのかという部分を見ずに「私にとっての」「仮面ライダービルドの戦争描写に対する評価」は留保せざるを得ませんが、現時点では上記のように考えます。

 私はこの作品を「主人公桐生戦兎の自己形成物語」だと解釈しています。過去の自分(=葛城巧)の発明品が軍用兵器、人を傷つける発明品であったということは戦兎の自己形成に関し大きな影響を与えることであり、避けて通ることは出来ない問題だと思います。しかし、戦争をモチーフにしていると「前面に」押し出す必要は、必ずしもなかったのではないかとも同時に思います(ここにおいてトーマス・マンファウスト博士』との共通点・相違点も探りたいなとふと思いました)。

 子ども向けの作品は、大海に向かって投げる小瓶にいれられた手紙のようなものだと思います。その手紙は未来に開かれ、解読にはきっとたくさんの辞書と知識が必要です。子どもたちがその手紙を開くときにその辞書と知識を広く広く渡せるような存在であることが、大人に求められていることのひとつなのだと思います。

 

 この点については引き続き考えていきたいと思いますし、大人の視聴者として考えるべきことだと思います。また思うところがあれば、追記という形で更新したいと思います。